「主イエスを信じる者」 06.06.18
使徒言行録16:25〜40
看守は、フィリピという大きな町の牢屋の責任を託されていた人です。
それなりの地位、信頼、財産を得て、幸せに暮らしていたでしょう。
ところがその看守を、激震が襲いました。地震が起こり、責任を任されて
いた牢屋の扉がみな開いてしまったのです。
看守は囚人の逃亡の責任をおわなければなりませんでしたが、とても
できそうにありません。
人生に襲いかかってきたこの激震に耐えられそうにないと思った看守は、
剣を抜いて自殺しようとしました。
これまでに、たくさんのものを手に入れておりましたが、この時それらは
助けにも救いにもなりませんでした。
その時、牢の中から声が聞こえてきました。囚人は皆ここにいると
言うのです。その声の主は、パウロたちでした。彼らは、理不尽な理由で
捕まえられ、鞭打たれ、拷問を受け、血みどろにされて、牢の中に縛られて
いたのです。
それにもかかわらず、牢の中で、神さまを賛美し、祈りながらすごして
いました。賛美ですから、不平不満の満ちたつぶやきの歌ではありません。
その歌と共になされる祈りですから、嘆きに満ちたものではなく、信頼と
他者への愛に満ちたものであったでしょう。
だからこそ、他の囚人が心動かされ、賛美と祈りに聞き入っていたに
違いありません。
看守は、激震の中で、自分は何の救いも持っていなかったことに
気づきました。それに比べて、痛めつけられ、生きる気力を奪われそうな
状況にありながら、なお賛美して祈っているパウロたちこそ、本当に
救われていると心から思いました。自分もそうなりたいと思ったのです。
だから「救われるためにはどうしたらよいでしょうか」と聞かずには
いられませんでした。
聖書は、「主イエスを信じなさい」と言います。
主イエスに身をあずけるようにして生きてみなさいと言うのです。
そこに、激震にあっても、なお平安を保って生きる道が開かれます。
主イエスは、どんなときでもしっかりと私たちを受け止め、支え、
さらには永遠の命を与えてくださる方だからです。